本庄~深谷(近代化遺産巡りポタリング)

本庄~深谷に点在する明治~昭和初期の近代化遺産を渋沢栄一ゆかりの場所を中心に廻るサイクリングコース

コース概要
本庄~深谷に点在する明治~昭和初期の近代化遺産を渋沢栄一ゆかりの場所を中心に廻ります。
距離:24.9km

本庄~旧渋沢邸「中の家」

明治20年(1887年)に渋沢栄一らが中心になって深谷に日本煉瓦製造株式会社のレンガ工場が設立されました。そのため近隣地域にもレンガ造りの建物が多く残っています。
本庄駅からスタート。
駅から130mほど線路沿いに熊谷方面に進むと建物両側の煉瓦塀とうだつが目立つ立派なレンガ造りの建物があります。
肥料問屋の建物で大正9年竣工
同敷地内にはもう一つレンガ造りの建物と煙突が見えます。石造りの門柱も立派。
本庄は中山道の江戸から10番目の宿場で武蔵国最後の宿場。中山道の宿場の中で一番人口と建物が多い宿場だったが火災に何度もあったので宿場町の面影はあまり残っていない。
幕末・明治以降は生糸・絹織物の集積地として栄えたので昭和の看板建築などが散見されます。
銀座通りと旧中山道の交差点の前に本庄宿の碑
碑の隣には国登録有形文化財の元本庄仲町郵便局(現在は郵便局では有りません)
タイル張りの昭和初期のモダン建築です。
裏にはこの郵便局の局長を務めてきた諸井家の住宅があり、明治時代の洋館らしいのですが残念ながら非公開。諸井家当主・諸井恒平は渋沢栄一の親戚で秩父セメントの創始者。日本煉瓦製造株式会社にも勤務していました。
旧中山道から少し北に入った場所に皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる田村本陣の門。
その奥に旧本庄警察署の建物
明治16年に建築された洋風建築(擬洋風建築)
天井には鏝絵のレリーフ
2階ベランダにはアカンサスの葉を彫刻したコリント式の列柱が並べられています。
旧本庄警察署から300mほど北に流れる元小山川の旧流路に国の登録有形文化財の橋「寺坂橋」が架かっています。
明治4年に架橋された現在利用されている道路橋としては埼玉県内最古の石造アーチ橋。土木学会の選奨土木遺産です。
隣の賀美橋も登録有形文化財で大正15年に架橋された鉄筋コンクリートの橋。
高欄に白タイル貼の連続アーチをあしらい、親柱の各面に三角ペディメントを表すなど、装飾的に凝ったつくり。
旧中山道に戻り60mほど西へ進むと旧本庄商業銀行煉瓦倉庫があります。
​明治29年に建設された旧本庄商業銀行の寄棟瓦葺二階建ての煉瓦造の倉庫。
この倉庫には融資の担保となった大量の繭が保管されていたそうです。
旧中山道を370mほど西へ進むと「蔵の街」の看板
道沿いの蔵が一の蔵で二の蔵、三の蔵が少し奥まった場所に並んでいます。
レンガ造りの二の蔵はカフェ及びイベントスペース「cafe NINOKURA」になっています。明治22年(1889年)築。
国道462号で北上し坂東大橋のたもとで利根川自転車道に出ます。
堤上の快適な道を進む。
「備前堀」の愛称で親しまれている「備前渠」は、慶長9(1604)年に関東郡代伊奈備前守が江戸幕府の命で開削した埼玉県最古の用水路。平成18年2月2日には、長い歴史や優れた景観を誇る疎水として「疎水百選」に選定されました。
伊奈備前守忠次は江戸時代初期に親子二代で荒川、利根川の付け替えの大事業を普請した人物。そのため関東各地に備前堀、備前堤の地名が残されています。

島村渡船乗り場の手前を右に下ると
「島村蚕のふるさと公園」があります。この境島村地区は利根川の南側なのに群馬県伊勢崎市の飛び地!地図をよく見ると飛び地の中にさらに埼玉県深谷市の飛び地が有って面白い。
世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成要素の一つ「田島弥平旧宅」へ
1863(文久3)年建築。蚕の飼育法「清涼育」を大成した田島弥平宅で、換気用の越し屋根を付けた近代養蚕家屋の原点となったとのこと。
表門の東側から眺める弥平旧宅
一体は養蚕農家の集落になっています。
弥平旧宅から650mほど東、群馬と埼玉の県境に建つ「日本基督教団島村教会・めぐみ保育園舎」
明治30年(1897年)に教会堂が建てられ、昭和25年(1950年)の増築に伴い外観は変わっていますが、礼拝堂の内部は当初の姿をとどめています。国登録有形文化財。
道を挟んだ別館も有形文化財に指定されています。
華蔵寺~丸山酒店・丸山酒造の前を通り
青淵公園から
旧渋沢邸「中の家」へ

旧渋沢邸「中の家」~深谷

旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。
周辺に渋沢姓を名乗る家が17軒あったことから、「東の家」「西の家」「中の家」「前の家」「新屋敷」などの呼び名で区別をしていたそうです。
栄一はこの地・血洗島で生まれ、満23歳まで暮らしました。帰郷した際にはこの家に寝泊まりしたそうです。
すぐとなりに古民家を改築した郷土料理・煮ぼうとうのお店「麺屋忠兵衛 」が営業しています。
血洗島諏訪神社の秋の例大祭で毎年、「四社参り」として獅子舞が蚕影山、笠原稲荷神社、福島聖天神社、吉岡大神宮と血洗島地内を舞い歩き奉納されます。その際「中の家」の中庭でも獅子舞が披露されます。
棒術の実演もありました。
再び青淵公園を 清水川沿いに走っていくと
渋沢栄一記念館が現れます。
伊勢崎深谷線で小山川まで走ると、川沿いに渋沢栄一関連の建物が2棟建っています。東京都世田谷区瀬田にあった、第一銀行の保養・スポーツ施設「清和園」の敷地内に建てられていたものを現在地に移築復元したものです。(第一銀行は渋沢栄一により創設された日本最古の銀行)
一つは渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って第一銀行の行員たちの出資により、大正5年(1916)に建築された「誠之堂」
「誠之堂」の名は儒教の代表的な経典のひとつ「中庸」の一節「誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり)」にちなんだもの。「論語と算盤」の著書が有る渋沢は論語の精神に基づいた道義に則った商売を提唱していました。

外観は英国農家に範をとりながらも、室内外の装飾に、中国、朝鮮、日本など東洋的な意匠を取り入れるなど、様々な要素が盛り込まれ、それらがバランスよくまとめられています。
「喜寿」の文字がレンガを用いてドーンと側面にデザインされています。もちろん使用されたレンガは日本煉瓦製造株式会社で焼かれたもの。
中心の大広間は、円筒型の漆喰天井(ヴォールト天井)
天井には、朝鮮風の雲・鶴の模様の石膏レリーフが配され、それらが「松葉」で縁どられています。また、デザイン化された「寿」の文字も配されています。
ステンドグラスの図柄も東洋風です。
次の間の天井は、大広間とは対称的に網代天井で、日本的な数寄屋造りの様式を採り入れています。
風見鶏の方向を表す文字はてん書風にデザインされた漢字で示されたユニークなもので、中国風を感じさせます。
ちなみに渋沢栄一は喜寿(77歳)に際して清水建設から「晩香廬」、傘寿(80歳)に際して竜門社(渋沢栄一記念財団の前身)から「青淵文庫」という建物も贈られていて、それらは飛鳥山公園内に保存されています。
もうひとつの清風亭は、大正15年(1926)に、当時第一銀行頭取であった佐々木勇之助の古希(70歳)を記念して、清和園内に誠之堂と並べて建てられました。
屋根のスパニッシュ瓦、ベランダの5連アーチ、
出窓のステンドグラスや円柱装飾など、当時流行していたスペイン風の様式が採られています。
建物の角やアーチの縁を装飾しているのは、煉瓦ではなく「スクラッチタイル」。ベランダや柱の足回りなどには、煉瓦でも特に色の黒い「鼻黒煉瓦」と呼ばれる煉瓦を用いて飾られています。
縦樋の飾枡には、銅板の打ち出しにより、セミの浮き彫が施されています。
室内天井の仕切り(天井蛇腹)には、石膏彫刻により唐草模様のブドウのつると果実がかたどられています。

出窓の腰掛けも、木製彫刻で装飾されています。
小山川を東へ進み
日本煉瓦製造株式会社 旧煉瓦製造施設へ。工場の一部として「ホフマン輪窯6号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに平成9年5月、国重要文化財に指定されました。
門柱の日本煉瓦製造株式会社のマーク
明治21年(1888年)頃の建設で煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている旧事務所。
地元の人々からは「教師館」「異人館」と呼ばれていた。
明治39年(1906年)頃の建造と言われている変電所
ホフマン輪窯6号窯はスッポリと建屋を覆われていて外観は見えません。現在はこれしか残っていませんが最盛期には6基の窯が稼働していました。
もともとは内部を見学できるのですが現在保存修理工事のため、通常見学を休止しています。見学の再開時期は令和6年(2024年)頃の予定です。
日本煉瓦製造株式会社は、近代的な官庁街や鉄道等の整備を強く推進していた明治政府の意向を受け、明治21(1888)年に操業を開始しました。
ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯6号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものです
野木町煉瓦窯についてはこちらに記事を書きました
日本煉瓦製造の製造した煉瓦を使用して建設された建築物には、以下のものがあります。
東京駅
法務省旧本館
中央本線万世橋高架橋などの鉄道高架橋
信越線碓氷峠の鉄道施設(メガネ橋など)
旧金谷レース工業鋸屋根工場(ベーカリーカフェ・レンガ)
工場の北側の煉瓦塀沿いに進み
敷地に隣接して、工場と深谷駅を結んでいた専用鉄道(日本で最初の専用鉄道)の軌道敷に備前渠鉄橋と煉瓦構造物が残っています。
1895年(明治28年)製でこちらも重要文化財。生産した煉瓦は鉄道ができる前は小山川の舟運によって出荷されていた。
鉄道跡が深谷駅まで遊歩道として整備されています。
福川に架かっていた福川鉄橋がブリッジパークに屋外展示されています。
福川鉄橋はポーナル型プレートガーダー橋としては 現存する日本最古のもの
国道17号まで進み右折
国道17号沿いに一際目立つ萌黄色の西洋建築が建っています。
埼玉県立深谷商業高等学校記念館、別名「二層楼」
1922年 (大正11年) に建設された、フレンチ・ルネサンス様式を基調とした木造2階建瓦葺き校舎。埼玉県内で唯一、完全なかたちで残る大正期の木造校舎で、平成12年に国の登録有形文化財に指定されました
記念館の前には学校の設立に尽力した渋沢栄一手植えの松があります。
旧中山道に出て唐沢川を渡る。
旧中山道沿いに有る「七ツ梅酒造跡
元禄7年(1694年)に創業、三百年の歴史を持つ蔵元の酒蔵跡でカフェ、居酒屋、物販など複数の店舗が営業しています。
70mほど西に有る創業1908(明治41)年の老舗和菓子店「糸屋製菓店」。「翁最中」、「翁羊羹」、「五家宝」、「あんドーナツ」などが名物。
さらに250mほど西には深谷の地酒「菊泉」の蔵元滝澤酒造があります。
全高20メートルを超える煉瓦製の煙突には、戦時中に受けた銃弾の跡が残っています。
工場や倉庫も、すべて深谷産の煉瓦でつくられています。
煉瓦の外壁の小路がレトロな雰囲気。
大円寺の煉瓦塀の前を通り駅方面へ
途中の路地にある煉瓦蔵は大正元年竣工。奥の3階建の洋風の店舗は、昭和2年竣工の木造。正面に「小林商店」
日本煉瓦製造で製造された煉瓦が東京駅に使われたことに因んで深谷駅の駅舎は東京駅そっくりの駅舎に1996年(平成8年)生まれ変わりました。
ただし、この深谷駅舎自体はレンガ構造ではなく、コンクリート壁面にレンガ風のタイルを貼ることによって東京駅に似せています。頑張ったな、深谷…。

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