コース概要
「目黒・目白以外の色の目ナントカもあるのかな?」と思ったことがある人は多いはず。東京には目黒・目白に目黄・目赤・目青を加えた五色の不動尊「五色不動」があります。寄り道をしながら巡ってみましょう。
距離:41km
獲得標高:510 m
目黄不動尊(最勝寺)~目黄不動尊(永久寺)
目黄不動尊(最勝寺)からスタート。最寄り駅は平井駅、荒川堤防際なので荒川サイクリングロードから立ち寄りやすい場所です。
境内に入ってすぐ右側に不動堂があります。
目黄不動のある最勝寺は大正2年(1913年)に本所から現在地に移転してきました。
目黄不動は三ノ輪にもう一体あるのでそちらへ向かいます。
平井駅前を通り
平井橋で旧中川を渡ります。
京成の曳舟駅と
東武の曳舟駅付近を通過
墨堤通りから明治通りに出て
白鬚橋で隅田川を渡ります。
明治通りから60mほど南側の路地に「エレキテル」で知られる平賀源内のお墓があります。
鉄の扉に閂が掛かっていますが開錠時は自由に入場できます。
元々この場所にあった総泉寺は移転して平賀源内のお墓はそのまま保存されたとのこと。
説明看板を読むとあまりいい死にかたじゃないですね。
以下解説看板より引用
平賀源内墓(国指定史跡)台東区橋場二丁目二十二番二号平賀源内は享保十三年(一七二八)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に 生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(一七四九)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学医学・儒学絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。安永八年(一七七九)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。総泉寺は昭和三年(一九二八)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され昭和六年にはよりなる松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。平成十七年三月台東区教育委員会
すぐ近くに建つ高さ3m余の「お化け地蔵」も元は総泉寺境内。
以下説明看板より引用
お化け地蔵台東区橋場二丁目五番三号 松吟寺「お化け地蔵」の名には、かつて大きな笠をかぶり、その笠が向きをかえたから、あるいは高さ三メートル余の並はずれて大きいからなど、いくつかの伝承がある。この辺りは、室町時代以来、禅宗の名刹総泉寺の境内地であった。門前一帯を浅茅ヶ原といい、明治四十年刊『東京名所図会』には「浅茅ヶ原の松並木の道の傍らに大いなる石地蔵ありしを維新の際並木の松を伐りとり、石地蔵は総泉寺入口に移したり」とあり、「当寺入口に常夜灯あり、東畔に大地蔵安置す」とも記している。お化け地蔵の台石によれば、この石仏は享保六年(一七二)の建立。関東大震災で二つに折れたが、補修し現在にいたっており頭部も取りかえられている。常夜灯は、寛政二年(一七九〇)に建てられた。総泉寺は、昭和四年板橋区へ移転した。「お化け地蔵」近くにある「元総泉寺境内諸仏供養の為」の碑は移転に際建てられたものと思われる。平成十一年三月台東区教育委員会
「アサヒ会通り」から
「旧日光街道」に出て
「カフェ・バッハ」へ。数多くの珈琲職人を育て、ブルーボトルコーヒーの創業者もリスペクトする自家焙煎コーヒーの名店です。
カウンターの奥にずらりと並ぶコーヒー豆、目の前でハンドドリップされたたコーヒーは雑味がなく正統派の美味しさ。店員さんのサービスもキビキビしていて気持ちいい。
店内には特注のオリジナル焙煎機
カフェ・バッハから北へ80mほど進むと
左手に元「いろは会商店街」
元「いろは会商店街」を通って土手通りに出る。
「いろは会」商店街は吉原と山谷を結ぶ商店街。大正8年(1919)から続く100年以上もの歴史がある商店街でしたが2018年にアーケードが撤去され、現在営業している店はわずか。下の写真はかつての姿。
「旧日光街道」と「明治通り」の交差点が「泪橋」。劇中の木橋の泪橋はありませんがここは「あしたのジョー」の舞台となった場所。商店街の入り口には矢吹ジョーが立っています。
矢吹ジョーから100m南が「吉原大門」交差点
昼営業だけの伊勢屋の昼前は常に長蛇の行列。2時間待ちの覚悟が必要です。店先にもごま油の良い香りが漂っています。
土手通りを三ノ輪に向かい、明治通りに入って
「大関横丁」交差点の手前、道の向かい側にもう一つの目黄不動尊(永久寺)があります。
目黄不動尊(永久寺)~目赤不動尊(南谷寺)
門を入ると左手に不動堂があります。
目黄不動がなんで2つあるのか?そもそも五色不動とはなんぞや?最勝寺・永久寺とも看板の説明には「三代将軍徳川家光が天海僧正の具申により江戸府内の名のある不動尊を「目白・目赤・目黒・目青・目黄」と指定した」とあります。五色は「万物は「陰・陽」の二気、「木・火・土・金・水」の五行で成り立つ」という陰陽五行説の考えに由来しています。(「木・火・土・金・水」→「白・赤・黒・黄・青」)
ただしWikipediaなどを見ると江戸時代から目黒・目白・目赤の三不動の存在は文献等で確認できるが、「五色不動」という名称が登場するのは明治末または大正初めとのこと。目黄と目青は後付っぽい。そんなこんなで目黄不動を名乗るところが複数出てきてしまったようです。大体、五色不動の位置が陰陽五行説の其々の色に対応する方角と一致しないんですよね。
目黄不動尊(永久寺)から路地を北に入った場所にある「浄閑寺」は吉原遊廓の遊女が弔われた投込寺として知られるお寺。(公式HPにも「三ノ輪の投込寺」とあります)
安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになりました。
関東大震災や東京大空襲で死んだ遊女も祀られている「新吉原総霊塔」
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、しばしば浄閑寺を訪れていた永井荷風の詩碑と筆塚が「新吉原総霊塔」と向かい合わせに建っています。
昭和通りを渡り、三ノ輪橋駅へ。梅沢写真館ビルは元は王子電気軌道の事務所で昭和2年に竣工された「三ノ輪王電ビルヂィング」です。
ビルの中をくぐると
都電荒川線の三ノ輪橋駅に出ます。
都電荒川線は線路沿いにはバラが植えられていて春と秋に色とりどりの花が咲きます。荒川区内全域と大塚駅~向原駅沿線が特に見どころです。
三ノ輪橋駅から延びる「ジョイフル三ノ輪」も大正から続く商店街。
商店街に入ってすぐの場所にある「都電屋」はホテル・ジム・カフェが入る複合施設。
王子電気軌道の路線図やジオラマが飾られ
電車のシートを再使用した店内の椅子に数々の鉄道グッズコレクション
運転映像が映写されるなど「鉄っちゃん」にはたまらないお店になっています。
「三ノ輪バーガー」はボリューミー!
「ジョイフル三ノ輪」は人通りも多く活気が溢れる現役の商店街。
と言いつつ訪れるたびにシャッターを閉めた店舗が増えている気もする。
レトロな雰囲気のお店も多く風情があります。
明治通りを横切り
鶯谷方面へ
鶯谷のラブホ街のすぐ隣に
正岡子規が晩年を過ごした「子規庵」があります。
子規はこの場所に明治27年(1894)から没する明治35年(1902)まで住み、結核と脊髄炎を患いながらも俳句・短歌・随筆を書き続けました。まさか家がラブホに囲まれることになろうとは想像できなかったでしょう。
子規庵から300mほど日暮里駅方向に進むと江戸時代に茶屋として創業した「羽二重団子」があります。ここは子規もよく利用して句や文中に何度も登場した店。夏目漱石、泉鏡花、田山花袋の著作でも「芋阪の團子屋」などと記されています。
店の前には子規の句碑「芋阪も團子も月のゆかりかな」。芋坂は羽二重団子のすぐ裏の谷中霊園から根岸に下ってくる坂の名前。日暮里一帯は1700年代の中頃からつつじが植えられ寺院の庭が続き、春の桜、秋の紅葉も美しく、日の暮れるのも忘れるということから「ひぐらしの里」とも呼ばれる風光明媚な場所だったそうです。今の日暮里~鶯谷のイメージとだいぶ違います。 司馬遼太郎の「坂の上の雲」作中では秋山真之が「羽二重団子」を土産にして正岡子規を訪ねるシーンが描かれていました。
椅子と机には団子のシルエットの穴が開けられています。
日暮里駅前の跨線橋を渡り緩やかに上る御殿坂を進むと
道が二股に別れています。真っ直ぐ(右側)進むと
谷中銀座に下っていく「夕やけだんだん」。一般公募で決まった愛称で階段から美しい夕焼けを眺められることから名付けられました。
自転車は左側の道を進み
「夕やけだんだん」の下に出ます。
谷中銀座は谷根千散策の定番ルートで下町の人気観光地。常に人でごった返しています。自転車は降りて歩きましょう。
少し前までは谷中は猫の街みたいな言われ方をしていましたが保護活動や地域猫の去勢が進んだこともあり路地の猫はすっかり少なくなりました。昔は夕やけだんだんで結構会えたんだけどね。今は屋根の上に木彫りの猫が点在。
谷中銀座の屋根の上に5匹の木彫り猫がいるそうなので散策ついでに探してみては。
不忍通りに出て
団子坂を上る。
本郷通りを駒込方面に進むと
左手に目赤不動尊(南谷寺)があります。
目赤不動尊(南谷寺)~目白不動尊(金乗院)
境内に入ってすぐ右側が不動堂。
この不動尊は伊賀の赤目山に由来して元は赤目不動尊といい、ここから700mほど北東の動坂にあったのが江戸時代に移転してきたもの。伝承では徳川家光からこの地を賜り、名を赤目から目赤にせよとの命を受けたとあります。
本郷通りを戻って白山上に抜け
白山上から白山下に下り
白山下から白山通りを横切り蓮華寺坂を上り
小石川植物園裏から御殿坂を下る。
ここらへんは台地を幾筋もの川が削った谷筋が入り組んでいて、東西方向に進むと坂を上ったり下ったりの連続になります。
現在の小石川植物園は東大の付属施設ですが元は江戸幕府の薬草園。江戸時代の医療施設・小石川養生所も設けられた場所で国の名勝および史跡に指定されています。
園内で四季折々の植物を鑑賞でき、特に桜と紅葉の時期は大勢の見物客で賑わいます。
ニュートンの家の庭のリンゴとか
メンデルのブドウとか海外とのアカデミックな繋がりを感じさせる樹木などもあります。
柴田記念館は大正8年に建設された、植物園に残っているもっとも古い建物です。
敷地の西北側には高低差のある日本庭園が広がります。
池の畔に建つ洋館は東京大学総合研究博物館 小石川分館(旧東京医学校)
明治9年(西暦1876)に建築されたこの建物は、旧東京医学校の本館で、東京大学に関係する建造物では現存する最古のもの。国の重要文化財に指定されています。昭和44年(西暦1969年)に本郷構内からこの場所に移されました。
明治最初期の擬洋風建築として貴重な存在。至るところに和のテイストが滲み出ています。
現在は建築ミュージアムという位置づけで建築模型や東大所有の様々な建築・空間資料などを展示しています。
千川通りに出て
播磨坂を上る。
播磨坂は約120本の桜が植えられ、春には「文京さくら祭り」が催される花見の名所です。
春日通りに出て茗荷谷駅前を通過。
「大塚一丁目」交差点を左折してお茶の水女子大と駒場大付属高校の間を抜け
音羽通りに下っていきます。
音羽通りを江戸川橋方向へ進むと
左手に「鳩山会館」の入り口
坂の上に通称「音羽御殿」、鳩山一郎の旧邸宅である鳩山会館が建っています。
関東大震災翌年の大正13年(1924年)に建てられたこの洋館は戦後政治史の舞台の一つ。設計は明治生命館などを手掛けた岡田信一郎。
庭にある信楽焼の狸はアンマッチだな~。
鳩のモチーフが色んな場所に見られます。
小川三知作の日本を代表するステンドグラス
南側のサンルームから庭に出られるようになっています。
イギリス風の中庭は特に薔薇の季節が素晴らしい。
知恵の象徴ミミズクが屋根で睨みを効かせています。
「目白坂下」信号を右折して目白通りを上る。
坂の途中の「関口フランスパン」は教会の製パン部をルーツに持つ日本最初の本格派フランスパン製造者。
元老・西園寺公望公爵も愛したフランスパン
イートインで食事もできます。
坂を上った先の椿山荘の向かい側に
東京カテドラル聖マリア大聖堂
丹下健三の代表作の一つで1964年竣工。時代を超えたカッコよさ。
目白通りを進み
「目白台二丁目」信号を左折。
まっすぐ下る富士見坂の途中から日無坂が枝分かれ。都内でも屈指の絵になる坂で「時をかける少女(アニメ映画版)」など数々の映画・ドラマのロケ地としても知られています。
坂の下を右折し田崎の宿坂の角に目白不動尊(金乗院)があります。
目白不動尊(金乗院)~目青不動尊(最勝寺)
境内に入ってすぐ右側に不動堂があります。
目白不動は左腕がなく腕の途中から炎が吹き出していて、この姿を断臂不動明王と言うそうです。不動明王の左腕をかたどったお守りもあります。
目白不動堂は元は関口駒井町(関口フランスパン店の付近)にありましたが、昭和20年の戦災で消失したため現在地に移ってきました。
上から見るとこの迫力!都内の自動車で走行できる最も急な坂道で「22%」の勾配看板が建っています。興味のある方は富士見坂と合わせてヒルクライムにチャレンジしてみてください。
面影橋を渡り
諏訪通りから
箱根山通りに入って
戸山公園の箱根山へ
江戸時代この地には尾張徳川家の庭園があり、池泉回遊式の大名庭園に人工の山が築かれました。
それがこの箱根山。
山手線内の最高峰(高さ44.6m)!
戸山公園サービスセンターで箱根山に登頂した証として、登頂証明書を発行しています。
箱根山の麓に見える六角形の広場のような場所は「陸軍戸山学校軍楽隊・野外音楽堂(野外演奏場)跡」
明治~昭和にかけて現在の戸山公園の場所に陸軍戸山学校が設置されていました。
大久保通りに出て
河田町を抜けて
「あけぼのばし通り」へ
ここにお台場に移る前のフジテレビがありました。元フジテレビの場所は現在は高層マンション。
外苑東通りから「車力門通り」へ
「車力門通り」沿いの荒木町界隈は典型的なスリバチ地形。津の守弁天・策の池を底に四方をお椀状に土地が低くなっています。
以下説明看板より引用
美濃国高須藩主松平摂津守家上屋敷跡について
江戸時代、荒木町一帯には、美濃国高須藩主(現在の岐阜県海津市付近を領地とした藩)松平摂津守家(近くの津の守坂はこれに因む)の上屋敷がありました。屋敷内には滝を伴った大池があり、回遊式庭園となっていましたが、この池は徳川家康が鷹狩りの帰りに策(むち)を洗ったという伝承があり「策の池」と呼ばれます。池は、明治時代には一般に開放され、景勝地、花街として賑わいました。「策の池」は現在もその一部が残っており、「カッパ池」と「津の守弁財天」として親しまれています。なお、荒木町の「車力門通り」は、上屋敷の甲州街道口にあった「車力門」に因むものです。幕末期、藩主松平義建の子としてこの屋敷に生まれた兄弟のうち、二男慶勝は尾張徳川家、五男茂徳(後の茂栄)は御三卿一橋家、七男容保は会津松平家、八男定敬は桑名松平家を継承しました。兄弟は幕府方と新政府方に分かれ、立場を異にしましたが、「高須四兄弟」 と呼ばれ、激動の時代を生き抜きました。新宿区
明治時代花街として賑わった名残で現在も大人の街の一面を持っています。
新宿通りに出て
四谷方向に500mほど進んだ路地を南に入ったところに”東京鯛焼き御三家”のひとつ「わかば」があります。(日曜休み)
間違いない美味しさ!
「津ノ守坂入口」まで戻り円通寺坂を進み
須賀神社へ
須賀神社の男坂は映画「君の名は。」のラスト近くに登場するアノ坂のモデル。
外苑東通りへ出て
信濃町駅前から線路沿いに西へ進み
中央線を跨ぎ首都高をくぐって
国立競技場へ
絵画館を周り込んで
外苑いちょう並木へ
絵画館を背景にした外苑いちょう並木は東京の秋を代表する風景のひとつ。
都会とは思えない緑豊かな庭園が魅力。
庭のカキツバタが咲く時期に毎年「国宝燕子花図屏風(尾形光琳)」が展示されます。
六本木通りを横切り
國學院大學前を通過
前方に清掃工場の煙突を見つつ明治通りを渡る。
清掃工場の近くには清掃工場が発電した電力を利用した小さな植物園「渋谷区ふれあい植物センター」がひっそりと運営されています。
跨線橋で山手線を跨ぐ。
猿楽町から
旧山手通りへ出ます。
広場の真ん中に一本の河津桜が植えられていて絵になります。
空気が澄んでいれば富士山も見えます。
斜面の下の菅刈公園にも河津桜
日本庭園もあります。
目青不動尊(最勝寺)へ
目青不動尊(最勝寺)~目黒不動尊 (瀧泉寺)
目青不動尊は明治時代に青山から現地に移転してきました。
世田谷線の二子玉川駅の前を横切り
国道246号から路地に入って
昔ながらの氷屋さん「氷いしばし」へ(日曜休み)
冬は石焼き芋も売ってます。
蛇崩緑道でちょっとショートカット
世田谷観音通りで五本木へ
学芸大駅近くを通り
鮫洲大山線を進んで
小山台公園へ
羅漢川プロムナードを通り
林試の森へ
元林業試験場の土地なので林試の森
林業試験場当時の樹木がそのまま残されており、都内でも屈指のケヤキ、クスノキ、プラタナス、ポプラ、スズカケノキなどの巨木がある。
林試の森を抜けると目黒不動尊参道入口
目黒不動尊
(瀧泉寺)は江戸時代からの人気行楽地で門前町もにぎわっていたそうです。
独鈷の滝と前不動堂
目黒不動尊の本尊は秘仏なので普段は見ることができません。不動明王は酉年の守り本尊とされているので、12年に一度・酉年に特別開扉されます。
サイクル・スポーツ用品